いつも夜中に帰宅するとTVで映っていたオリンピックが終わった。
印象的だったのは、卓球の福原愛選手がインタビューで「苦しかった」を連呼していたことだ。
個人は惜しくも4位に終わったが、団体では銅メダルを獲得して、戦績は良かったんじゃないかと思ったが、ご本人はとにかく「苦しかった」そうだ。
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福原さんは卓球が好きでやっているのか(好きと言ってもノンプロなので、半分は職業なのだろうが)、義務でやっているのか、インタビューだけだとうかがい知れないプレッシャーがあったんだろう、なんて思った。
若くて、勢いのある新鋭だと、メダルを取った後に結構はしゃぐケースを見ることもあったが(柔道の野村が1回目の金メダルを取った時など)、キャリアを重ねると重圧が増えるようだ(野村氏も3個目の金メダルやその後4回目の挑戦が実らなかったことなどがあった)。
福原選手の場合、小さい時から注目され続けていたので、ある程度「周りの目」には慣れているのだろう、なんて勝手に思っていたがそうではなかったようだ。ただ、小さいころからTVの前でもどこでも素直に喜怒哀楽が表現できるのは、いいなあとも思った(これはレスリングの吉田選手にも言えることだ)。
選手個人のためのオリンピックか国威発情のためのものか(文科省から強化費用の補助金が出ているため)、線引きが難しいが、大会の意義を見出すのが年々難しくなってきているように思う。
もっとも、最近女子レスリングなど日本が得意とする種目が増えたことや水泳の躍進、体操の復活(卓球もオリンピック種目の前は強かった)などでメダル獲得者の数がグッと増えているので、一人一人のスター選手に係る重圧はかつてより少なくなっていると個人的には思う。
かつて水泳の長崎宏子さんやマラソンの瀬古俊彦さん、スピードスケートの黒岩彰さんのような時代はメダリストが少なかったので、ものすごく特定個人への注目度が高かったはずだ。
柔道男子は、上から押さえつける様な練習から個人の自主性に任せたとたんに全階級メダルが取れた、なんて日本の会社組織のような話しもある(逆にそんなに潜在能力が高かったんだとびっくりしましたが)。
しかし、個人が感じる責任感?のようなものは当時より強くなっているのかもしれない。注目度が分散されても、個人が感じるプレッシャーは変わらないようだ。
好きで始めた競技であるはずなので、真剣さの中にも楽しむような感覚を持ってもらえると、いいなあ(見ている方はそこまで責め立てるつもりはないんだけどなあ)。
東京オリンピックでメダル数3位獲得なんてかなり強気の目標を立てているようだが、選手の余計なプレッシャーにならなければいいけど、とも思った。ロシアなんて組織ぐるみ(と思われるような)ドーピングをやってあのメダル数なんでしょ?
身体能力に劣る東洋人がメダル数を劇的に増やせるのかって気がしますね。
投資判断はご自分で
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